前略、この世で最も不要なものは他者である。
自己に対して他己と呼ばれる不必要な存在がいるからこそ怒り、妬み、悲しみが生まれるものである。
対象がなければこんなものは発生しないのだ。僕も鬱にならないのだ。
インセル(非モテ男)が起こす無差別な事件は自分を認めないことに腹を立て事を起こすという主張がある。
これは大きな間違いである。
大前提としてインセルにも2パターンの人間がいる。人を憎んでいるか否かだ。
インセルであるが男友達はいる。そのような人間は男女関係においては進展がない一方で男同士の友情は確かに存在する。女とは話せないけど男なら… という感じだ。
それが出来ない人間は人間を憎むようになる。僕のように。
友達が出来ない理由は人それぞれであろう。会話が苦手、対人コミュニケーションが苦手、積極性がないetc...
こうした男女関係もなく、友人も出来ない人間は孤独の道を突き進むようになる。
日常で行う会話も必要最低限になることは目に見えているだろう。
かくいう僕もバイト中を除いた会話なんて
- ランチの普通盛りください (対学食のおばちゃん)
- 袋いらないですor袋ください (対コンビニ店員)
- 支払い〇〇で、ありがとうございます (対コンビニ店員)
せいぜいこの3種類だ。暮らしの中に”日常会話”が入り込んでいない人間は365日のうち8割以上をこの3種類のデッキだけで生活することができる。
そんな人間が何故生活できるのか、お前よくそれで大学行ってバイト行ってできるなと言われることもある。
この意見に対しての結論はこうだ。利益を得るうえで仕方の無い会話、どちらか一方が客 他方が店員である業務上仕方のない会話
この2つだ。
少なくとも僕は2年以上この2種類以外の会話を排斥して人生の8割を過していると言っても過言ではない。
物を買うために仕方なくする会話、単位を得るために仕方なくする発表やグループワーク、金を得るために仕方なくするバイトでの会話がそうである。
すると人間はどうなるであろうか?答えは 人間関係が不必要だと思える だ。
当たり前だが業務上致し方ない会話から人間関係が発展することなどない。コンビニ店員と恋に発展するなど創作物の読み過ぎだ。ましてバイト、職場の同僚と仲良くなって云々かんぬんというのも業務外の会話というフェーズを通り過ぎなければ発生することもない。僕のような人間とは無縁の事柄である。
インセルの彼女ほし~、結婚して~などはこの人間関係が不必要だという結論に辿り着く前の通過点でしかないのだ。
そしてそのような考えに至った際、業務以外で目にする人影、耳にする他人同士の会話はノイズと成り果てるのだ。
”憎しみ”というワードだけ聞くと個人的な好き嫌い、妬みから発生する感情であるというイメージが先行する。
だが、ここでいう憎しみとは 存在そのものが邪魔で無駄で不必要な人間が目の前を闊歩し、他人同士で耳障りな会話に花を咲かせた際の雑音に対する怒りから来るものであろう。姦しい女、お前だよ
そこに何かしらの精神疾患が祟り、凶行に走る引き金が緩まると事が起きるのだろう。
このストレスに対処するにはどうすればいいのであろうか。言ってしまえばここまでは私は鬱病ですというのを長々と書き連ねたに過ぎない。ドイツの歴史書に「負けた」と書くだけでこの長さ?と言っている有名な画像と同じ状況だ。
ここからは相談。これ、どうすればいい?
この数年でかなり鬱期間があり、いろいろと僕なりの対処をしてみた。その結果を記しておく。
①ドカ食い気絶
気絶するまではまあ良いだろう。起きた瞬間軽くなった財布と不健康極まりないものを大量摂取した自分への嫌悪感で鬱が加速する。却下。
②ひたすら寝る
人生において貴重な時間を意味のない睡眠で浪費した事への自己嫌悪、寝ることでストップした家事(とくに洗濯)が積み重なって襲ってくることへの手間がストレスに。却下。
③読書、アニメ鑑賞
同上。
④旅行、遠出
出費がバカ。鬱の頻度と釣り合わない。
⑤労働
これは割とアリ。鬱病の人間なんて自己肯定感が微塵もないんだから労働行って自分が必要とされていると錯覚でも思うことが必要。ただし鬱の原因が労働でないときに限る。麻枝准…?
⑥酒
コスパがいい。酒飲んで鬱飛ばして気絶して翌朝から元気に過すのが一番早いと思います。ただ致命的な欠点として泥酔状態で鬱だった事例とドカ飲みして台所でぶっ倒れた事例があることです。ワンチャンどころか10チャンそのうち死ぬ。
詰んでいますね。死ぬリスクを背負ってでも酒が一番効くと思います。でも記憶なくして朝起きたら切り傷に痣に体調不良とフルコンボを食らった回があったので一長十短…
こういった事を寿命が縮むだの削るだのと表現されがちだが僕の場合は違う。差し伸べられたいくつもの手の内たまたま死神の手を取らなかっただけにすぎない。気持ち良く酔える手、ぶっ倒れる手、抱き枕に話しかけ続ける手、その他様々な手から死なない当たりを引いただけにすぎない。判断能力を失って自制ができなくなっただけ、今生きているのも運ゲーを通したに過ぎない。
鬱のときにドカ飲みする理由は酒で気持ち良くなりたいとか鬱を晴らしたいとかそんなチンケなもんじゃない。最悪死ぬ運ゲーを通して自分が生きていることを再確認するためだ。歪んだ成功体験で快楽を得ている。
このような人間は酒で人生にプラスが生まれているなんてことは無い。世のウェイウェイ大学生が酒で+10を+100にしているなら、俺は-100を-70にしてるだけだ。もしこの値を0ないし+にしようものなら間違いなく死ぬ。
幸福など得られないのである。だからこそ他者の幸福が憎い。幸福を享受する人間が憎い。
よく自殺志願者に生きていればそのうちいい事があるなんて無責任な言葉をかける輩が居るが、不確定な未来の幸福への先行投資として目の前の絶望から目を背けることなど不可能である。お前が幸せにさせてくれるのか?幸せを教えてくれるのか?
そして自分一人で獲得出来る幸福には限度がある。だから他者の幸福を妬むことしかできない。
そりゃ些細な幸福の一つや二つくらいあるよ?旅行は楽しかったしガチャでいいキャラも引いたりした。ただ、そんな幸福でマイナスの人生観をプラスに持ち込むことなどできない。
幸福論で争点になることの一つとして 死は救済なのか があると思う。僕の中で死は逃避に過ぎないってのが結論。死んで目の前の絶望から逃避するより未来にある娯楽物を享受できない方が損だから。